「先を読む」だけじゃない? 将棋で身につく2つの「大切な力」
こんにちは。将棋普及指導員の池です。
今回は、将棋を通して私が子供たちに伝えたいことについての話です。
子どもに将棋を習わせる理由として、生徒の親御さんによく言われる言葉があります。
「こんな時代やから、将棋を通して先を読める人間になって欲しいねん」
こんな時代。ほんとうにそう。現代は変化の激しい時代です。
一生安泰と言われた優良企業が次々と倒産する一方、ユーチューバーに代表されるような、今までは考えられなかった働き方が生まれています。次に何が起こるか予測がつかない、まさしく激動の時代といっていいでしょう。
「先を読む力をつけて欲しい」というのは、頷ける話です。
しかし、これだけはハッキリさせておきたいのですが……残念ながら将棋で未来予知はできません。
その証拠に、私は20年間将棋を続けてきましたが、シャープの買収もAIの台頭も全く読めませんでした。多くの人と同じように、社会の変化に驚かされっぱなしです。
「先を読む力」はそんなに万能ではないのです。
私が将棋を通して本当に学んでほしいのは、今から言う二つの力です。
1.未来を読もうとする力
大事なのは、先を読もうとする姿勢、あるいは習慣、そのものです。
将棋というゲームは一人ではできません。必ず相手がいて、一手一手交代で指します。自分が決められるのは全体の50%。だから完全に先を読み切ることは、実際には藤井聡太七段でも無理なのです。
でも、「どうせ相手が何をやってくるか分からないのだから、考えたってムダ」と、先を読もうとすること自体をやめてしまったらどうでしょうか。
まず勝てませんよね。
人事を尽くして天命を待つ、と言いますが、人事を尽くさないと運命の女神は微笑みません。結局のところ、将棋で勝つためには、少しでも高い確率で先を読むために知識を蓄え、仮説を立て、作戦を練るしかないのです。それは、とてもしんどい作業です。多くの場合、読みは裏切られます。それでも、読もうとすること自体をあきらめてはいけない。私はそう思っています。成長はそこからしか生まれないからです。
だから、何も考えずにすぐ次の手を指す子がいたら、たとえそれが正解だとしても、私は叱ります。「ちゃんと読みなさい」と。
2.過去の責任をとる力
将棋には、多くのスポーツやゲームにはない、ある残酷な特徴があります。
それは、「言い訳が一切できない」ことです。
サッカーや野球などの球技は、たとえ自分がベストを尽くしても、チームの総合力が弱ければ負けます。柔道や陸上などの個人競技でも、生まれ持った体格やその時の風向きなど、自分ではどうにもできない要素に多かれ少なかれ影響を受けます。
しかし、将棋にはそれがありません。
将棋で負けた時、いつだって理由はシンプルです。「自分が相手より弱い」という勝負の原理。「どこかでミスをした」という揺るぎない事実です。
さらに、将棋には審判がいません。
勝敗を決めるのは、対局者自身。力及ばず敗れた側は、「負けました」と自ら宣言しなくてはならないのです。まして、囲碁やオセロのように「3目勝ち」とか点数が入るわけでもなく「勝ち」「負け」の二元論なのです。
この「負けました」はめちゃくちゃ悔しいため、最初なかなか言えない子が多いです。ぶっちゃけ、大人になっても言えない人が普通にいます(道場のおっちゃんに多い)。それでも、ここに将棋というゲームの真の魅力がある。私はそう考えています。
投了の意思表示を対局者が自ら行うという「約束」。
それは言い換えれば、自分の過去の行動に責任を持つということです。一手一手に責任を込めて指すということです。
責任という言葉にはどうしてもマイナスイメージが伴いますが、責任を持って選んだ手によって勝利したとき、その喜びは何物にも代えがたいものがあります。責任とは本来、ポジティブに使うべき言葉なのです。
かつて将棋は武士の文化でした。歯を食いしばりながら投了することで、自分の行動の責任をとるという「武士道」を、ぜひ子どもたちに身につけて欲しい。私はそう考えています。
いかがでしたか。池が日頃考えていることを話しました。「先を読む」ことで未来を、「責任をとる」ことで過去を……って、ちょっと格好つけすぎたかもしれませんが(^^;)
長い文章に付き合って下さり、ありがとうございます!